2012年10月23日火曜日

秋の美しい日

フランス語で「秋晴れ」のことを、「秋の美しい日」と言う。とても綺麗な言葉、音だ。
二週間ぶりぐらいだろう、水色の、快晴の秋空が広がっている。消えかかる飛行機雲が、水色の背景の中で交錯している。

真夏、灼熱の太陽の蜃気楼の中で、不思議な寂寞感に襲われる。
一時、自我が消滅する。長大な時間の中にいることを実感する。
秋の美しい日に、それは起こらない。私の、年齢、体調、思考のリズムに相似していて、とても、気持ちがいい。

河原温のデイトペインティング。
カンバスの表面には、その作品が製作された日付以外、なにもない。
そして、その日付が、日毎、どんどん後方へ流れていく。
自己、自我を超えた、もうひとつ違うレベルの美術作品が、そこにあるだけだ。

彼が、日本で活躍していた頃。浴室の中に累々と横たわる切断された人物を描いていた。
デイトペインティングのシリーズへ移行したのは、ニューヨークへの移住後だった。
晩年は、世界を旅し、自宅に絵葉書を延々と送り続け、その絵葉書の集合を、作品として展示していた。ここにも、ひとりの美術家の「普通のリズム」ではないものがある。そこには、河原
温、個人は、既にいない。大量の絵葉書と、日付印があるだけだ。

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少しずつ、枝の先端の葉が、黄色、黄土色、焦げ茶色、赤みがかったオレンジ色に変色し始めている。黄色い葉が、少しずつ、庭の芝生の上に落ち始めている。

フランス語で「枯葉」のことを、「死んだ葉」と言う。発音するたびに、少し、どきりとする。
でも、木々の見えない奥底。冬を待つ準備が順調に進んでいること。脈々と息衝く木々の根の充実感が、私には分かる。死んだ葉は、役目を終えたのだ。

私たちは、花、葉を見て、刹那を感じる。
私たち自身の時間を、そこに投影する。
それは、こちらの幻影に過ぎない。

木々にとって、花も葉も、部分に過ぎない。母体の力が充実した時に、既に、花も葉も必要がなくなっている。

私は、落下した花々、死んだ葉を見て、刹那を感じない。
感じるのは、力だ。

毎年、私は、死んだ葉を掻き集め、「じゃ、また、来年」と呟いて、幹を軽く叩く。

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