2012年10月1日月曜日

ライブ

俺は、基本的に、ライブ演奏しか信じていない。

絵描き、物書きとミュージャンとの大きな違いは、ミュージッシャンのゴトシ(仕事)は、ライブ、直接の観衆(お客さん)を前に成立することだ。絵描きさんでも、ライブで絵を描く人はいるけれど、基本的になんか違う。「あんちゃーーーん、死ぬまで、弾きまくれぇーーー」とか、ライブ中に、励ましのようなヤジが飛んで来る。で、俺は、「この野郎っ、人事だと思いやがってっ。弾きまくったるぅーーー」とか頭の中で、ひとり呟いていたりする。そして、お客さんの裕イサオを聴きに来ている熱気と期待が伝わってくる。この感じはとてもいい。人生の一瞬の時間を、見知らぬ人と共有し、しかも、熱くなっている。みんな、俺ら、生きとるぞぉーという感触が伝わってくる。音楽、いや、ジャズ屋冥利です。創作の時間を「共有できる」のは音楽(一部の)しかない。

田村隆一さんの詩に、「時が過ぎるのではない 人が過ぎるのだ」という一節がある。
吉増剛造さんの散文詩に、正確な記述は忘れてしまったけど、「死は至る所にある。君の前の線路。君の手首。ほんの一メートルもない所に。そして、それが難儀で、その勇気がないのなら、君の血管のひとつひとつが生きている証なのだ」。

水色の秋空の下、川の辺で、金子みすずさんの「美しい町」の絵描きのように、水面を見つめていたら、上のフレーズが音楽のように頭の中を通り過ぎていった。

今更、自分が笑い出すぐらい自明のことが、頭に浮かんで来た。
死、なくなった方。それは生きている我々の脳髄の中にしかない。死という観念自体が、生きている証だ。めげて疲れている時、時折、それが甘美なものに思える時がある。目を覚ましたくない欲求が込み上げて来る時もある。

動物、生物の死は、その形が物体になることだ。そして、土に返る。その形が生きて動いていた、共有していた時間、思い出が、映像が、生きている我々の脳髄の中で息づく。

弾き手のいなくなった楽器。それも、魂のなくなった物体に過ぎない。

だから、自分の死は自分の問題じゃない。生きて、その生きていた形を内包して、その後に生きていく人たちの問題。だから、生きている内に、きちんと生きないと。死に順は厳守。生きていた時間と、共有した時間は穏やかにこしたことはない。墓参りの時に、思わず、不謹慎にも、くくくって、思い出し笑いが出る。そんな形が、一番いい。だから、自殺は、生者への冒涜だ。一世一代の、その人のパフォーマンス。しゃらくさい。そんなことをするなら、音楽がある。文学がある。美術がある。芸術は、そんなもやもやに決着を付けるためにある。と俺は信じている。

と、水面を見てて、俺は思った。昔は、死に急ぐジャズミュージッシャンが多過ぎた。
格好付け過ぎ。俺は嫌だね。三流でいい。穏やかに生きる。そういうことだ。

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