なんか、大変に重々しいタイトル。
私のブログの右側のプロフィールをご覧頂くと、「所謂、芸術家」である。
ただし、三文芸人、三文芸術家である。今更、否定のしようがない。
で、まだ、三文芸人は、味わいという逃げ場があるが、三文芸術家、こっちは、粗大ごみ。
では、芸人はさておき、芸術家とはなんぞや、という話をしよう。
「私にとっての芸術家」
きっぱりと、自由であること。以上。
ありゃ、終わっちゃった、よ。これじゃ、つまんねぇーよなって。
で、続けよう。
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1) 芸術家は、天才ないし、一流であること
だって、人間の歴史および視点、世界観を変えるのだよ。半端なことじゃないの
一番、分かり易いのは、マルセル デュシャンだろう。表史は、ピカソが有名だけど、このデュシャンという超知能は、美術の歴史を根底から変えた。その内、ちゃんと書くけど、ご興味ある方は、各自で嵌って下さい。難解だょー。と、芸術家ってのは、これぐらいの人間を指す
ちょっと、分かり難いから「遠近法」。これは、ダビィンチが発明したんだけど、我々の視覚にこれがインプットされてしまったから、風景が、そういう風に見えるようになった。全人類の視覚のメカニズムを変えてしまったのである。こっちの方が、分かり易いはず
2) 芸術家は、自由人である。というより、自由であるがために、芸術しているから、派閥争いだの、嫉妬だの、ぐちゃぐちゃやっている芸術家というのは、存在し過ぎているけれど、だから、芸術家ではない。ふざけているし、本末転倒。芸人の世界と一緒にしないで欲しい。こっちは、いいんだよ、それで。芸人は庶民の代表だ。でも、芸術家は、論外。崇高な人間を指す
3) 分かり難い説明。たとえば、いいですか、ピアノを弾いていることが芸術じゃないのね。分かります?たとえば、ありゃ、また、おフランス、ごめんなさい、エクリバン(作家)とロマンシィエール(小説家)、これは、きっぱり分かれている。日本はロマンシィエールの巣窟。芸術家とは、前者を指す
因みに、日本の小説家で、じゃ、だれが芸術家なの?ってなる。たとえば、三島由紀夫は、私見では、世界最高峰のロマンシィエールのひとり。むしろ、人生自体が芸術になってしまった特異な人物である。
深沢七郎。脱帽である。芸術家だし、一切の後続がいない。唯一、富岡多恵子さんが、その知力で迫った。以上なのだ。大体、生きている人間が、人間自体を風景として見る。人間主体の世界観と、真っ向から対立している。これは、もう、上から目線、なんちゅう流行語を越えている。おちゃらけが、あまりに多過ぎる。ぎょ、俺もだ。すいません。自分に謝る。
芸術を舐めてはいけませんよ、取り分け、自称する覚悟は、途轍もなく重い。
自由であるということは、社会的な位置がそうであることではない。そんなものは、ない。
気持ち、内面、心、なんでもいいんだけど、こっちが自由であればいいから、安上がりだよ。
すべて、否定しない。嫌いなものは、それでいいんだけど、たとえば、ラップは音楽じゃない。
何様だって、人間じゃないっていっているのと同じことだ。好き嫌いはいい。ただ、音楽じゃない。そういう定義をする人間は.....。
なんだか、偉そうだよな、俺よぉー。
と、昨日、ここまで書いて、今、再読。論理矛盾している。
芸術家=歴史を変える人
芸術家=心の自由人
算数上は、この二つがないと駄目となる。で、前者は、途轍もない作業だし、学問の世界と同じで、生物学的には、二十代で、その芸術論は確立していないといけない。で、まったく新しいものを作り出すには、心の自由人でないと不可能であるから、当然、前者は後者を兼ね備えている。おえぇーーー、じゃ、たとえばだ、後者だけだとなんなんだ?前者を、自動的には兼ね備えていない。分からない。けど、これだけでも本人自体の人生は、相当、変わる。
そうか、また、自分に戻ってくる。心の自由な三文芸人。おぉーーー、庶民の代表だっ!
なんだか長くなるけど、たとえば、俺のピアノ。山下洋輔さんを超えてなんかいないから、諸、二番煎じx10みたいな程度である。だから、ピアノ弾きだけど、山下さんみたいな芸術家ではない。でも、それを知ってやっているから、まぁ、心は自由だ。その方が、楽しいのである。
なんか良く分からん結論。
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