過去の、若僧の頃の自分の姿がフラッシュバックする。
その若僧の背中、後ろ姿が、とんでもなく切ない。
手を差し伸べようとする。届かない。
ボルドーの豪雨の中、坊主刈りで、海水パンツ姿のまま、ボロ自転車を漕ぐ若僧。
そいつは二十三歳だった。金槌を脱出すれば、世界観が変わる予感に打ち震えながら自転車を漕いでいた。あまりに、雨が凄いので、水中眼鏡を掛けて、プールへ向かった。
水着姿の同世代の女に囲まれながら、溺れるような姿で、実際に、半分は溺れていたのだ、その無様な姿を克服するために、毎日、プールに通った。そいつの、筋肉質の後姿が、脳裏をかすめる。
出来ないことが山積していた。
フランス語の習得、水泳、そして、なにより現代美術家というビザで、そいつはフランスに上陸したのである。一旗上げに。
いつ死んでもいいと、毎日、思っていた。
全力で突っ走って、駄目なら、それでいいと、毎日、思っていた。
そして、突っ走った。相当、長い間。
今、その若僧の背中と、未来の自分の裸体が同時に見えている。
若い頃っちゅうのは不様でね、思い出すだに恥ずかしくなる。
返信削除一所懸命なところが恥ずかしいし、純粋さも恥ずかしい。
ただそう思えるのは、どうやら生活、或いは人生、或いは真理というものが、特別な哲学の中や選ばれた人の理屈やら方程式の上に成り立っているのではなくって、もっと単純な生きとし生きるものの“力”といったもので縷縷綿綿と引き継がれているらしいと気付いたこの頃のことで、若かった頃はぼくもまた全てに牙を剥き、疲れきって睡魔に捻じ伏せられるまで、何千キロという距離を歩き回り雨に打たれながら、何も知らない何も気付かない無智な世間を嘲笑い罵ってもいたのです。
ああ、あの頃が恥ずかしい!そして同時にあの頃の自分が愛おしくも思えるけど、今のぼくには、
それも過去の一場面でしかないのです。
久保はつじ 拝