記事の執筆日とアップの日が、少しずつズレ始めている。
本日、1月28日2013年は、快晴、真っ青。宇宙船から見える地球を、反対側から見ている実感が込み上げて来る。突然、地球の海の面積を思い出したり、コスミック現象を脳が起こしている。
「コメント」
被害に合われたブロガーさん、ごめんなさい。
時々、私は、コメント狂に変身する。赤ワインをちびちびやっている内に、もう、なんとしてもエールを送りたい。ファンであることをお伝えしたい。この欲求が、どうにも抑えられなくなる。ただし、得体の知れない裕イサオなんちゅう三文芸人からのコメント。ご迷惑になる可能性大なので、ある意味、姑息なのかもしれないけれど、非公開で、と送ってしまう。そして、翌朝、起きて後悔する。ひとつには、コピーしていないので、内容は、もちろん、覚えているけれど、自分のコメント、非公開なので再読できない。今後は、コピーしておくことにします。すいません、いい加減なコメンテーターで。
インターネットというバーチャルな世界。当然、ブロガーさんご本人と面識はない。そして、お会いする可能性も、とてつもなく低い。こういう関係の中で、コメントする。一抹の後悔は、なんか馴れ馴れしい文章だったかしら? 言い回しが適切だったのだろうか? たまたまなのだろうけれど、コメントお送りした後、更新がされていないと、とんでもなく心配になってくる。応援の仕方が、拙かったのかな? 応援自身がご迷惑と感じる方もいらっしゃるだろうな、とか、いろいろと考えてしまう。なんか変なんですけど、自分のブログ以上に、気を使ってしまう。
ブログは、公に開かれているし、文責は、すべて、私にある。
コメントは、その方、特定された個人へのメッセージ。しかも、面識のない方へ、である。
個人攻撃という、私が、もっとも嫌いな方向も可能であるところが、物凄く怖い。
いや、応援、エールの送り方も難しいと、いつも、思っています。
私個人は、応援コメントを頂くと本当に嬉しい。でも、そうでない方もいるかもしれないという一抹の不安が拭えないのです。
「心のスイス人の内的実態」
物事には、賛否両論が付き物。
山下洋輔さん。初期の演奏スタイル。拳、肘打ち。よくピアノの弦を切る。ペダルを折る。消防服姿。海岸にグランドピアノ。燃え上がるピアノを朽ち果てるまで演奏する。
現代美術家、ナムジュンパイク。画廊の真ん中で、アップライトピアノを斧で破壊。
例として書いたのですけど、当然、信奉する側と、非難する側という二極が生まれる。で、後者の方が、圧倒的に多数である。この状況下での、自分の意見ないし立ち位置は、どこにあるのか? ここが、スイス国籍の分かれ目になる。好き嫌いというレベルではなく、ある意味、社会的な立ち位置なのかもしれない。好き嫌いは個人ベースなので、一向に構いません。
マルセル デュシャンの歴史上の最初か二番目のスキャンダル。レディーメイド(既製品)という概念があるのだけれど、二十世紀初頭の現代美術展に、男性トイレ用の日本で朝顔と呼ばれる便器を寝かせて展示。マットムットと便器に署名。展覧会主催側より撤去勧告。「これは芸術ではない」。デュシャンは展覧会自体から脱会。
現代美術家内部でも、ふたつの意見が交差する。批判組み、あんなのは、売名行為のペテン師だ。
非常におもしろいのは、デュシャン自身の見解。
「私は、あれを芸術だと定義はしていません。あそこに置いただけなのです。私が腹を立てたのは、出品形式自由という趣旨で開催された展覧会の開催側が、展示を拒否したことです。スキャンダルは、私の意図ではありません。あれを、単に置いた。それだけです。それは、作品ではなく、私の中の、問い掛けのひとつとして置いたのです」
そして、彼の口癖。「たぶん」。
「自由の容積」
私は、社会的な意味での自由。そんなものはないことは知っている。
だれしも、巨大な人間社会の一員だから、当然、なんらかの歯車のひとつである。
そして、お金が絡んでくる。当然、利害の迷宮の中で生きるしかない。
幸い、私たちには脳という究極のプライベート空間がある。
この中での話なのだ。私のこのブログの二番目の項目。例として書いてみたけれど、こういった事象が、脳内へどのように投影されるのか。そういうことです。
なんだか、ややこしいブログになってしまった。
ここ近々、こちら、間もなくホモセクシャルの婚姻が合法化される。
テレビでは、この賛否両論の討議が、さかんに行われている。
動物としての自然の摂理に反するという、反対派の方も多い。
私個人は、それも一理あるとは思う。反面、自然の摂理を破壊し続けているのは我々でもある。こちらも一理。その他、諸々の討議の切り口がある。
と、ここまで書いてお昼を取った。もう、脳内シンコペが止まらなくなった。で、3日分ぐらい書いてしまう。
「俺のブログ」
俺、俺って、うるせぇなぁー、おやじっ! となる方も多々いらっしゃるはず。で、これは、俺という一人称で語られる「ワン ノブ 人類ズ」と、ご理解願います。ヘンリ ミラーは、「俺は、一個の人類史なのだ」と言っている。そこまで、コスミックではないけれど、ベクトルは同じだ。
でね、複数の仲間から、「裕さんって、やっぱ、すげぇー、真面目な人ですよね」って、言われた。ばれないようにばれないようにと書いていたつもりなのに。でも、毎日、長期に渡って書いてれば、本質は、当然でる。
それから、ある読者の方から、「裕さんが書かなくてもいい、おちゃらけ記事。必要ないのでは」というご指摘。この時、沖師匠の一言が脳内でマッターホーンエコー状態となった。
「なあ、イサオ。お前は芸術家。ヘビーな人間だ。わざとらしいおちゃらけ演奏は、止めろっ」
ところで、俺の中に、たしけさんと似た精神構造がある。
真面目人間、情に脆い、おセンチetcetc。そして、内的暴力満載のドSだ。
矛盾したふたつの要素を内包してしまうと、ドSなのに、いじめとか一切しないというネジレが起きる。そうなると、算数上のバランスは、ひとりサドマゾ。いじめの対象が自分になる。で、自分の本質とは懸け離れた、おちゃらけ、お笑い、ひょうきんとかをやってしまう。結局、自分で自分を笑っていじめるという倒錯人間となる。自分の真面目さを自分で笑い、踏みにじる。と、こうなる。
でも、真面目人間はばればれなので、やはり、ブログスタンスを変える時が来ていると思う。
タイトル、腰帯、ブロ画は変えないけれど、スタンスは、変えないといけないだろう。もう、三文芸人のPRブログなんていう言訳はよします。三文芸人さんに失礼だ。ある意味。
そう、格調高い、真面目な、高級文学ブログに変えちゃう。
または、孤高の芸術家の呟きとか、真の芸術家の心の叫びとか。
おー、やっぱ、ブログのタイトルとか一新しちゃおうかしら?
むむむ、またまた、ひとりサドマゾ神が、俺の様子を伺っている。出番はないのぉーーーって。
めんどくせぇー、キャラだよなぁー、ったく。
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